9月22日のメッセージセルフチェック

「それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。さらに、こう言う人もあるでしょう。『あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。』 (ヤコブ 2:17,18)

ヤコブは、行いのない信仰は死んだものだと言っています。神を信じる信仰と、それによる行いが共に一緒に働く時に、私たちの信仰は完全なものになると教えています。
それは、「もっと、更に信仰を持つ」という類のものではなく、自分が信じているならそれを行うことによって信仰を完全なものにする、ということなのです。
一日を通してある神様との時間、それを毎日重ねることが、神は信じるに値する方なのだということを再認識させ、疑いを消去させ、信仰の更なる歩みを前に進ませる助けとなります。
あなたの信仰はどのように表現できるでしょう?そして、どのようにあなたは神をもっと知ろうとしていますか?

9月15日のメッセージセルフチェック


強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。 (ヨシュア記 1:9)

マタイ 14:27-29/ ヨシュア記 1-3
聖書は常に主の誠実さと偉大な力について私たちに思い出せます。私たちは、強くしっかりとしているようにと教えられていて、主が共にいるのだから恐れるなと教えられています。 
「あなたの行く所どこにでも」という、この「行く」は、あなたが自ら動くということが要求されていることを意味しています。あなたが動き出すこと、信仰のゆえに前に進むことが求められています。水の上を歩くことや、水の中を通ることや、どんなことがあるにしても、神の栄光を見るには、あなたがまず自分の足を濡らさなければなりません。

9月15日 メッセージ

2012.9.15 信仰の歩み(約54分)

9月8日のメッセージセルフチェック

彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ 4:18,19)

「神の召し」というのは、多くの場合その過程にあります。自分の信仰、賜物、情熱、動機を「冷静な判断」で正直に正面から向き合うことが必要です。
聞くこと、そうして、発見すること。そしてあなたが自分で選り分ける必要があるのはわずかなことになります。
先週の礼拝でのメッセージ(あの悲惨な!)を聞かなければならなかった教会の人たちを見て、やはり召しというのはプロセス(結果ではなく途中の歩み)であり、形づくられることであり、挑戦と失敗の中にあるのだということを目撃しました。悲惨なメッセージでしたが、じっと聞いてくれた皆様の愛と励ましの言葉を感謝します!
私たちが、主が望んでおられる者らしくなれるよう、主が私たちをそのように形づくろうとすることをイエス様に許可し続けましょう!

9月8日 メッセージ

2012.9.8 それは過程(プロセス)である(約47分)

9月1日のメッセージセルフチェック

「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に活かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかをよく悟りなさい。」(エペソ人への手紙 5:15-17)

マタイの福音書 14:28,29.
あなたの「舟(快適/ゆとり/満足を求める心)」から足を踏み出すには、勇気と信仰が必要です。大胆さも必要でしょう。しかし、それ以上に知恵の効いた信仰が必要です。
パウロが言ったような「キリストにあって愚かである」ことと、「キリストの名において愚かなことをする」のは全く違うことです。
マタイの福音書では、ペテロが水の上を歩こうとした話が書かれてはいるものの、その出来事の中心はペテロではなくイエスであることは明らかです。 ペテロが「舟を出ろ」という命令を求めた相手はイエスであり、事実その命令を与えたのはイエスでした。
多くの人にとってこれはとても基本的なことかもしれませんが、あなたへの神の召しをあなたが知ろうとする時、一体その主体は誰でしょうか?
あなたへの召しを命令するのは一体誰なのか?それをまず知ることは知恵です。そして、それをはっきり知ることがなければ、あなたは誰に聞き、誰に耳を貸すべきなのか混乱することになります。
それが誰なのかをあなたがはっきりと自覚すれば、おのずと神にたずねるべきことがいくつかあなたにはあるはずです。そして、聞きましょう。