3月23日のメッセージセルフチェック

“富んでいるように見せかけ、何も持たない者がいる。貧しいように見せかけ、多くの財産を持つ者がいる。富はその人のいのちの身代金である。しかし貧しい者は叱責を聞かない。” (箴言 13:7,8)

 “わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。富と誉れとはわたしとともにあり、尊い宝物と義もわたしとともにある。わたしの身は黄金よりも純金よりも良く、わたしの生み出すものはえり抜きの銀にまさる。” (箴言8:17-19) 

ルカ21:1-6/ マタイ 6:19-34 / 使徒の働き 2:42-47 / 2 コリント 9:6-8

「使徒の働き」の中に一世紀の信者たちはたびたび集まって持っている全ての物をお互いに分け合っていた事が書かれています。初期の信者たちは共有の物が沢山ありました。持っている物を売り、その収益は必要な人たちと分かち合ったのです。それと同じように貧しいだけではなくお金を稼ぐあてもあまりなかったはずのやもめが 神殿で惜しみなく彼女の持っていた全てを神様に捧げました。2000年が経って最初の信者たちと21世紀に生きている者たちとの間に共通点がほとんど見られなくなりました!私たちの霊的先祖たちのようにキリストに仕えることはあまりにも過激なように思えてしまうのです―私たちの心のフォーカスを正常な位置に戻すまでは。キリストだけが確かなものであり、それ以外の物は一時的でありそれほど価値のあるものではありませんでした。神の御国を求めることによって初期の信者たちはこの世の富を永遠に続く富と繁栄に変えることができたのです。イエス様が彼らの宝であり、彼らの心はイエス様と共にありました。今こそ私たちは神の御国に自分たちの心を定めて徹底的に捧げる生き方をする時なのです!

3月23日 メッセージ

メッセージ 「一つの焦点に目が向けられた心」

3月16日のメッセージセルフチェック


“自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。” (マタイ 6:19-21)

マタイ 6:1-4, 19-24 / マタイ 13:44-46 / ルカ 21:1-4

つい先日私は大切な友人のかなり高価な自転車を修理したり磨いたりして一日を過ごしました。というのもその自転車は彼女の身体的な必要に応じて作られたカスタム・メイドのもので、 彼女にはもうその自転車が必要なくなり、他に使う人が見つからなかったので売りに出せるかどうか試してみる事にしたからです。その自転車は彼女の人生での役目を果たし、多くの素晴らしい思い出を残してくれました。面白い事に彼女はその自転車を保護するために大変な苦労をしたはずなのにその自転車に貯まったさびを拭き取るのにかなりの時間がかかりました。それからいちいちこの自転車から目を離して家に上がるたびに必ずその自転車に二重ロックをかけていました。イエス様の教えみたいですね!
この自転車はその友人の人生にとって特別な宝物というわけではありませんでしたが、さび始めていましたし、使わないときは柱につないでおかなければなりませんでした。
この出来事は神様が私たちに与えてくれたものに対して良い管理者になる事とともにその与えて下さった物といつかは別れるという事をもういちど教えてくれました。あなたの人生においてあなたの心を神様から離してしまった物はありますか?それらの宝物は壊された盗まれたりされる危険があるでしょうか?聖霊があなたの心に語る時いつでもそれらの物を与えたり手放したりする事が出来るようにしておいて下さい!それがあなたの心を永遠の宝のそばに置いておく一番の道だからです。

3月16日 メッセージ

メッセージ 「たったこれだけ、ではない」

3月9日のメッセージセルフチェック

“ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っていることの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。” (ローマ人への手紙 5:1-5)

ルカの福音書 23:32-43.

教会15周年は、ホープチャペルウェスト東京という私達の教会の名前について考える良い機会です。ただの「名前」ではなく、それはあなたが人生において持つことのできる素晴らしいものだからです。
あなたは恵みの中に立っていますか?それとも自力で恵みを得ようとしていますか?
あなたがルームランナーのベルトの上を走っていないか、足下を見てみましょう。なぜなら、それはあなのた人生に必要なストレスではないからです。
キリストのうちにあなたが立っている、という指標は、あなたの人生と主との関係に平和があるかという点になります。堅固な恵みという土台の上にあなたとキリストの関係があるという希望を理解し始める時、初めてあなたに平和が訪れます。そこで生き、歩く時、失望はありません。主にある希望は、あなたが必要としている平和をもたらします。すべては神の御手の上にあるのですから。

3月9日 メッセージ

メッセージ「希望は失望に終わることがない」

3月2日のメッセージセルフチェック


“キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。それによって私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存知だからです。 “ (I ヨハネの手紙 3:16-20)

ルカの福音書 10:25-37/ I ヨハネの手紙 3:11-24.

この聖書個所でヨハネは控えめな言い方をするような事はしていません。なぜなら聖霊様がそれを許していないからです。この個所を違う読み方で捉えようと試みましたが、無駄でした。イエス様が私たちの罪のために死なれたからこそ私たちは「愛」が何であるかが分かるのです。また、神様の愛が私たちの中にあるかどうかは私たちの取る行動によって表わされるのです。愛は神様の真実の中に有り、また、私たちの行動や身の回りの人たちに対する態度を通して表わされるのです。
イエス様は良きサマリア人の例え話の中で、問題は私たちの隣人が誰なのかではないとはっきり言っています。問題は、私たち自身が自分のすぐ近くにいる人たちに手を差し伸べることのできる隣人であるかどうかなのです。リビングで隣に座っている人、電車の中でとなりにいる人、教会でとなりにいる人、そして学校や会社でとなりにいる人—そう考えると、あなたの隣人というのは、具体的に顔や名前の浮かんでくる人たちであって、彼らは皆神様の愛を必要としているのです。私たちの世界は痛々しいほど憐れみが欠けているのです。
もし、あなたの心が神様の前で新たにされる必要があるとしたら、今がその時です。
 

3月2日 メッセージ

メッセージ 「これを行いなさい。そうすればいのちを得られます。」