4月21日のメッセージセルフチェック

“まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは、むしろ神の宮の門口に立ちたいのです。” (詩篇 84:10)
(読みましょう。2 サムエル記 6章1節-19節/ 1 歴代誌 13章ー15章)

先週のメッセージでは、1つの出来事の中に「惨劇」と「祝福」を学びました。
王ダビデはダビデの町エルサレムへ「主の箱」を運び込もうとしていました。 その時、主の怒りはウザに向かって燃え上がりました。なぜならウザの行いには主に対する敬意の無さがあらわれていたからです。 (2 サムエル記 6:7)
主の箱を持ち込む際の手順が、神のさだめに従ったものではなく、人々の意見や賛同を多く受けるアイディアを土台にした手順だったからです。いけにえも捧げず、敬意もなく、準備もせず、神の聖さへの畏敬の念もない。ただ自分に都合の良い方法で主の箱を自分の町へ持って帰りたかっただけでした。
主の怒りがウザを打ち、ウザが死んだという出来事を受けて、次の時には王ダビデはエルサレムに主の箱を持ち込むことに成功します。この時、ダビデはどのようにして主の箱を運べば良いか、と「主に」伺いを立てたのです。いけにえを捧げ、敬意を払い、その手順を神のさだめの通りに行いました。そして、ダビデは神を賛美しながら激しく踊り喜びながら主の箱を運び入れる行進の先頭にいました。彼は、主と人々の前で力の限り喜び踊りました。激しく踊っている自分の姿が人の目にどう映っているのかなど気にしませんでした。ただ、神の臨在が町へとやってきたことだけが重要なことだったのです。

私は、色々な人たちが色々な理由で教会で声をあげ歌い踊っているのを見てきています。中には、ただ単に楽しいだけでそうする人もいます。音楽がカッコ良くてそうする人もいます。自分の好みのジャンルの音楽賛美だからそうする人もいます。その時だけ気分が盛り上がってしまってそうする人もいます。「クールなサウンド」で歌って踊って楽しむ。悪いことではありません。しかし、私が語ろうとしているのはそういうことではありません。他人の目を気にせずに、ただ自分の人生に主が共に居てくださるということだけが理由で、自ら神を賛美することを選びとる、ということを言っているのです。 自分に都合の良い方法ではなく、敬意と正しい視点をもって、キリストにあって自分の毎日を喜ぶということが、まさに主をたたえ歌って踊るということなのです。神が生きて自分の毎日に共にいてくださることを喜ぶ。これがダビデが2度目に主の箱を町へ運び入れた時の出来事から学べることです。
神はもうすでに町へ運び入れられたのですから、 あなたの人生に主がしてくださることをただじっと待っているのはもうやめましょう!