3月2日のメッセージセルフチェック


“キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。それによって私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存知だからです。 “ (I ヨハネの手紙 3:16-20)

ルカの福音書 10:25-37/ I ヨハネの手紙 3:11-24.

この聖書個所でヨハネは控えめな言い方をするような事はしていません。なぜなら聖霊様がそれを許していないからです。この個所を違う読み方で捉えようと試みましたが、無駄でした。イエス様が私たちの罪のために死なれたからこそ私たちは「愛」が何であるかが分かるのです。また、神様の愛が私たちの中にあるかどうかは私たちの取る行動によって表わされるのです。愛は神様の真実の中に有り、また、私たちの行動や身の回りの人たちに対する態度を通して表わされるのです。
イエス様は良きサマリア人の例え話の中で、問題は私たちの隣人が誰なのかではないとはっきり言っています。問題は、私たち自身が自分のすぐ近くにいる人たちに手を差し伸べることのできる隣人であるかどうかなのです。リビングで隣に座っている人、電車の中でとなりにいる人、教会でとなりにいる人、そして学校や会社でとなりにいる人—そう考えると、あなたの隣人というのは、具体的に顔や名前の浮かんでくる人たちであって、彼らは皆神様の愛を必要としているのです。私たちの世界は痛々しいほど憐れみが欠けているのです。
もし、あなたの心が神様の前で新たにされる必要があるとしたら、今がその時です。