12月22日のメッセージセルフチェック

それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(ルカ2:17~20)

メリークリスマス!
クリスマスを祝うとともに、神様がそのひとり子イエス様の誕生を通してあなたにして下さった全ての事をもう一度振り返る時間をとりましょう。神様が既にあなたの人生に起こして下さった、そしてこれから起こして下さろうとしている様々な素晴らしい事をイエス様の母であるマリアのように「心に納めて」そしてそれらについて「思いを巡らす」時を過ごすべきだと思います。神様は、それらのことをこの世界をより良いものにするために備えてくださっているのであり、それはあなたが創られた大きな理由の一つだからです。クリスマスは実に喜ばしい日なのです!

12月22日 メッセージ

メッセージ「クリスマス」(約46分)

12月15日のメッセージセルフチェック

「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(第二ペテロ3:8〜9) 

ルカ1:39〜80/ローマ 5:3-5/ IIペテロ3:8 

神様が何かを与えて下さるまで待つのは辛い事だというのは当たり前のことです。けれどもパウロは私たちに苦難も喜びなさいと言っています。神様はそのような苦しみを通して私たちに忍耐や品性そして希望をもたらして下さるからです。そして、神様への希望が失望に終わるという事は決してありません。私たちは往々にして神様の時がまだ来ていないのに神様から何かしてもらいたいと思いがちです。私たちはイエス様がサンタクロースのようでいてほしい、そして毎日がクリスマスの朝のようであってほしいと思うのです!しかし、聖書に書かれているクリスマスの出来事の中で見てきた、本当の謙虚さや、忍耐を伴う神様への信頼は、やがて永遠の影響力を及ぼすことになりました。クリスマスの話の中には、自らの人生全てをかけて神様を待った幾人かの謙虚な人たちが出てきましたが、あなたは「他人を待つ」という点において、また「神様が何かを与えて下さるまで待つ」という事に対してどのようでありますか? 謙虚に、そして忍耐強く神様を待つ事ができるということは十分に成熟しているという事の表れなのです。

12月15日 メッセージ

メッセージ 「主は恵み深い」(約59分)

12月8日のメッセージセルフチェック

主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。(詩篇 37:7) 

マタイの福音書14:22-32/ ルカの福音書 1:26-38, 39-56

マタイの福音書の中に、イエスが明け方近い時間になってから恐れおののく弟子のところへ向かう場面があります。嵐を静める前に、弟子達を嵐の中待たせたのです。 ペテロが水の上を歩く奇跡、そして恐れ、水に沈みかけた時には、イエスは「すぐに」行動を起こしペテロを救いました。舟に戻り、それからやっと嵐は静まりました。 弟子達はイエスをたたえ、イエスこそ神の子であると確信します。 イエスが嵐の中やってくるには、あなたが耐え忍んでイエスを待つことが要求されます。 
 あなたは4番目の時間帯まで(ローマでは夕方6時から朝の6時までの12時間を4つの時間帯に区切っていました。)じっくりと主を待つことができますか?
自分が誰であるのかあなたのアイデンティティは、あなたが主を待つということに関してどのような影響を与えているでしょうか?

12月8日 メッセージ

主を待つ とは?(約57分)

12月1日のメッセージセルフチェック

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ 12:2)

ルカ 1, ローマ 12:1,2.
ルカの福音書でクリスマスの出来事が書かれていますが、ルカはザカリヤとエリサベツが主の目の前でまっすぐに立っている人々だったことをまず最初に書いています。彼らは本当に望んでいたものをまだ手にすることができていなくても、主を信じて、やめることなく主の道を歩き続けました。子供を望む祈りにこたえられなくとも、神とともに生きる夫婦でした。
 

「あなた」とは、あなたが何を考えている者か、なのです。
あなたがどういう者なのか、それはあなたの考えに表れます。
それでは、あなたはどんなことを考えるのに時間を使っていますか?

あなたの思考をどんなことで満たそう、もしくは満たさないように、としていますか?
どんなことに自分の思考をさらしているのかを意識したことがありますか?
それらはあなたの考え方や、感情、態度、行動、反応、そしてどこを向いて生きていくのか、それらに大きな影響を与えます。
 

ザカリヤとエリサベツは神によって使われることができる場所に常に自分たちの身を置いていました。
イエスは、「良い木は悪い実をつくらない。悪い木は良い実をつくることができない。」と言いました。どんな場所に木の根を張らせ、どんな栄養を摂らせるのか?その木の置かれる環境はどんな環境なのか?


あなたの人生には良い実がなっていますか?悪い実がなっていますか?あなたの心の根を張らせている場所は十分に栄養のある場所でしょうか?

11月24日のメッセージセルフチェック


すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見た事を実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。” (ピリピ人への手紙 4:8,9)

一日を過ごす時、あなたはどこを見ていますか?何にどれだけ目を向けているかで、自分が何について考え、何を自分の思考や心に与えるかが決まります。イエスを見ているでしょうか?何か他のものを見ているでしょうか?神ではない他のものに目を向けていたら、本当の強さや希望を得ることはできません。色々なことに気が散って、目を奪われると、落ち込みやすく希望を見失いがちになります。そして私たちは実に気が散りやすく、目を奪われやすいのです。今日もまた信仰の一歩を踏み出し、この世界がもっと良い世界になり始めるのを目撃しましょう! 

11月24日 メッセージ

2012.11.24 希望から目をはなさない(約50分)

11月17日のメッセージセルフチェック

風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたはいっさいを行われる神のみわざを知らない。朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。(伝道者の書 11:4-6)

失敗や恐れにかられる状況にはまってしまっていると思う時、私たちの多くが動けなくなり、結果、何もしない、ということがあります。
何もしないとどうなるか。否定的な考えや行動をするようになります。するとどうなるでしょう。私たちは落ち込み、状況も悪化します。
神様を信頼して行動を起こす1歩は、そのような悪循環を断ち切り、状況の中に希望を取り戻すことを可能にします。
荒れ狂う波の中で助けを求めにイエス様の方へと向かうペテロ。
真っ暗な洞窟の中で、自分の隠れ場は神であり神こそが自分に日々必要な分であるということを知ることができたダビデ。やがてダビデは新しい王となることができました。
この「1歩目の行動を起こす」という法則は今日も働いている法則なのです。希望を失うことで人は生きることが難しくなります。あなたが失敗したと思っている人生のある部分において、神様に向かう1歩目の足を出すことができたら、キリストの希望をもう一度その部分に取り戻すことができるのです。

11月17日 メッセージ

2012.11.17  外へ抜け出すことの意味(約58分)

11月10日 メッセージ

10日の礼拝は特別メッセージとなったので録音はありません。

11月3日のメッセージセルフチェック

わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主のよくしてくださったことを何ひとつ忘れるな。主は、あなたのすべての咎(とが)を赦(ゆる)し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から購(あがな)い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ.... (詩篇 103:1-4)

「失敗」や「ふりだしに戻る」ような状況にあなたはどう対処しますか?誰かに嘆きや文句を聞いてもらいますか?フェイスブックやブログに嘆きや不平不満を垂れ流しますか?
現実には、そういう方法はあまり生産的ではなく、また実際には更なるトラブルや頭痛をつくりあげてしまいます。聖書の中でのダビデの嘆きやつぶやきは、すばらしい結果をもたらしました。 ダビデは神様に対して本当の自分の姿をさらすことのできる本物の勇気をもった人で、そうして購いをみつけ恵みとあわれみの冠を受けることができたのです!

どうやって自分の霊的状態を判断していますか?最近、すぐに落胆したりするようになっていますか?たとえ暗闇の中であっても、神様にもっと近づいて歩くことを選ぶなら、神様が共に居ることを感じることができるでしょう。そして、トラブルや問題はあなたの霊を壊すことはできないことを知るでしょう。すべてのものを失ったり失敗したりする時、神様のもっとも素晴らしい働きが成されることがあるものなのです。

11月3日 メッセージ

2012.11.03 前向きに失敗する (2) (約50分)

10月27日のメッセージセルフチェック

人の日は、草のよう。野の花のように咲く。風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。主の義はその子らの子に及ぶ。 (詩篇 103:15-17)

神に従うためにリスクを負うことは、ただ無茶なことをするのとは全く違います。
あなたの人生における神の召しに関してあなたが持つ恐れに対してあなたはどう対処していますか?
あなたの子供時代に、あなたは恐れについてどんなことを体得しているでしょうか?
あなたが体得してしまったそれは、あなたの行動や決断にどんな影響を与えていますか?
それはどのくらいの間そこに居座っているでしょうか?
ダビデが詩篇で書いた言葉は、主イエスとの関係は永遠であって、この地上での人生は限りある時間だということを思い出すようにと教えています。信仰において舟から出ることを遅らせようとする「恐れ」に力を与えるのはやめましょう。時間はあまりないのですから。

10月27日 メッセージ

2012.10.27 前向きに失敗する(約50分)

10月20日のメッセージセルフチェック

しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。(マタイ 14:27)
恐れは色々な姿になって表れます。心配するということも恐れの1つの形です。思い悩んで心配すること(たいていは未来のことです)は、今日この時の喜びを奪っていきます。恐れは、神と人との親密さを奪っていきます。恐れは、神に出来ることに限界を持たせ、人生の目的を失わせます。
あなたの人生における神の召しによって、自分の持っている恐れに直面させられます。しかし、ペテロの様に、あなたはそれらの恐れと格闘する必要があり、恐れを倒すことでそうして初めてイエスの力強い臨在を更に体験することができます。 若い女中に、イエスなど知らないと言ったペテロは、その後何千もの人々に神の良い知らせを宣言し教会の誕生となりました。 ペテロは立ち直り、兄弟達を励まし強め、イエスがイエスの教会を立てるための「岩」となったのです。ペテロは神の自分への召しを全うしました。
あなたが最も恐れていることは何ですか?その恐れとはとても高い代償だと感じていますか?恐れを感じながらも、それでもやるべきことをやるという第1歩はあなたにとって何でしょうか?
イエスはあなたと共に居て、今週どんなひどい嵐が起ころうともも打ち勝つことのできる主です。心穏やかに。

10月20日 メッセージ

2012.10.20  恐れるな (2) (約56分)

10月13日のメッセージセルフチェック


しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。・・・ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助け手ください。」と言った。(マタイ14:27−30)

ルカ22:14−62
ペテロはイエスとの最後の食事の場所で大胆なことを言っていました。ペテロが思い描いていたことと、神がイエスに与えた計画は違ったものでした。状況が変わっていく中で、その状況はもはや神は働かれておらず神の手にもおえない状況なのではないかと思わせるもので、ペテロの計画も変わっていきました。恐れがペテロの口にする言葉を導き、ペテロの行動を引っ張っていくようになります。そして女中の若い女の子の質問に対する答えもまた恐れによるものでした。鶏が鳴いた時、イエスはペテロと目を合わせ、ペテロは外に出て激しく泣きました。ペテロにとって、主を本当に心から愛していたからこそ体験した痛みに満ちた体験でした。恐れがペテロを支配したのです。それは珍しいことではありません。今日でもそうです。
恐れと逃避は習慣となり、人生が恐れと心配に満ちたものへとなっていくのです。

あなたと主の歩みをみてください。あなたの日々の行動や選択は「恐れ」を土台にしたものになっていませんか?
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何か自分にとって難しく心地よいものではないからという恐れが理由で先へ延ばしていることがありませんか?しっかりと向き合わなければならない内なる恐れを、聖霊が明らかにしてくれることようにといのりましょう。主はあなたを見捨てません。絶対に。

10月13日 メッセージ

2012.10.13 恐れるな(約55分)

10月6日のメッセージセルフチェック


信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル12:2)

ピリピ1:1−14
ペテロは舟から出ましたが、風を見た瞬間から新たな問題が発生しました。来なさいと命令したその方から目をそらしたのです。あなたは風に目を向け始めた時どうするでしょうか?
幾度もの嵐を体験したパウロは自分の大変さや状況に目を奪われる事はありませんでした。パウロは主に注目し、主にあって愛した人たちに心を留めました。鎖に繋がれても主をたたえつづけました。それは、たとえ自分が投獄されている状況であっても福音が述べ伝えられることは前進しているからでした。良き働きを始めた方は必ず完成させてくださることを確信していたからでした。人生に与えられる神の召しは、最後の最後にはとても良いものとして完成されることを理解していました。パウロは「生きることはキリストであり死ぬことは益である」と言いました。
誘惑は甘くとも、ギブアップすることを絶対に拒否すること、それは途中がどうであれ最後には最善が神様によって用意されていることを知っているからこそできることです。パウロは風の音より神の召しを選びとったのです。

10月6日 メッセージ

2012.10.6  風を見る(約48分)

9月29日のメッセージセルフチェック

さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ。」と言われた。 (使徒の働き 9:10)

使徒の働き 9:1-19/ ルカ 18:18-30.
あなたの足を濡らすには、まずあなたが舟を出なければなりません。舟を出るには、あなたの快適なエリアから出なければなりません。一日の始めに、どこに一歩を出すべきなのかを信仰においてイエス様に尋ねることは、あなたの狭い快適エリアの境を広げるための助けとなります。
「恐れ」はあなたの「安全で快適な舟」を出るための最大の壁です。そして、まさにあなたが恐れている場所こそが、神が神に従う者に命じる場所であることが多いのです。なぜなら、神はあなたにその恐れに打ち勝つことを望まれておられるからです。
ルカの福音書18章には、裕福な青年が、永遠の富と引き換えに自分の財産を手放すことの恐れに打ち勝つことができなかった話が書かれています。彼はイエスの召しに従わずに歩き去ることを選びました。その一方で、使徒の働き9章には、アナニヤが主の命令に従うために恐れを乗り越えた話が書かれています。アナニヤはサウロという非常に危険な男に近づくのがどんなに危ないことかを知っていました。しかし、アナニヤは、「まっすぐ」という道をサウルに手を置き祈るために歩いたのです。その道を歩いて向かうことは、主と共に歩く水上の歩みであったはずです。
アナニヤが主の命令に従い、逃げず、恐れを乗り越えて、その道を歩いたことを、私は本当に心から嬉しいと思うのです!

9月22日のメッセージセルフチェック

「それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。さらに、こう言う人もあるでしょう。『あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。』 (ヤコブ 2:17,18)

ヤコブは、行いのない信仰は死んだものだと言っています。神を信じる信仰と、それによる行いが共に一緒に働く時に、私たちの信仰は完全なものになると教えています。
それは、「もっと、更に信仰を持つ」という類のものではなく、自分が信じているならそれを行うことによって信仰を完全なものにする、ということなのです。
一日を通してある神様との時間、それを毎日重ねることが、神は信じるに値する方なのだということを再認識させ、疑いを消去させ、信仰の更なる歩みを前に進ませる助けとなります。
あなたの信仰はどのように表現できるでしょう?そして、どのようにあなたは神をもっと知ろうとしていますか?

9月15日のメッセージセルフチェック


強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。 (ヨシュア記 1:9)

マタイ 14:27-29/ ヨシュア記 1-3
聖書は常に主の誠実さと偉大な力について私たちに思い出せます。私たちは、強くしっかりとしているようにと教えられていて、主が共にいるのだから恐れるなと教えられています。 
「あなたの行く所どこにでも」という、この「行く」は、あなたが自ら動くということが要求されていることを意味しています。あなたが動き出すこと、信仰のゆえに前に進むことが求められています。水の上を歩くことや、水の中を通ることや、どんなことがあるにしても、神の栄光を見るには、あなたがまず自分の足を濡らさなければなりません。

9月15日 メッセージ

2012.9.15 信仰の歩み(約54分)

9月8日のメッセージセルフチェック

彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ 4:18,19)

「神の召し」というのは、多くの場合その過程にあります。自分の信仰、賜物、情熱、動機を「冷静な判断」で正直に正面から向き合うことが必要です。
聞くこと、そうして、発見すること。そしてあなたが自分で選り分ける必要があるのはわずかなことになります。
先週の礼拝でのメッセージ(あの悲惨な!)を聞かなければならなかった教会の人たちを見て、やはり召しというのはプロセス(結果ではなく途中の歩み)であり、形づくられることであり、挑戦と失敗の中にあるのだということを目撃しました。悲惨なメッセージでしたが、じっと聞いてくれた皆様の愛と励ましの言葉を感謝します!
私たちが、主が望んでおられる者らしくなれるよう、主が私たちをそのように形づくろうとすることをイエス様に許可し続けましょう!

9月8日 メッセージ

2012.9.8 それは過程(プロセス)である(約47分)

9月1日のメッセージセルフチェック

「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に活かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかをよく悟りなさい。」(エペソ人への手紙 5:15-17)

マタイの福音書 14:28,29.
あなたの「舟(快適/ゆとり/満足を求める心)」から足を踏み出すには、勇気と信仰が必要です。大胆さも必要でしょう。しかし、それ以上に知恵の効いた信仰が必要です。
パウロが言ったような「キリストにあって愚かである」ことと、「キリストの名において愚かなことをする」のは全く違うことです。
マタイの福音書では、ペテロが水の上を歩こうとした話が書かれてはいるものの、その出来事の中心はペテロではなくイエスであることは明らかです。 ペテロが「舟を出ろ」という命令を求めた相手はイエスであり、事実その命令を与えたのはイエスでした。
多くの人にとってこれはとても基本的なことかもしれませんが、あなたへの神の召しをあなたが知ろうとする時、一体その主体は誰でしょうか?
あなたへの召しを命令するのは一体誰なのか?それをまず知ることは知恵です。そして、それをはっきり知ることがなければ、あなたは誰に聞き、誰に耳を貸すべきなのか混乱することになります。
それが誰なのかをあなたがはっきりと自覚すれば、おのずと神にたずねるべきことがいくつかあなたにはあるはずです。そして、聞きましょう。

7月28日のメッセージセルフチェック

この地球で何をするためにあなたは造られたと信じていますか?
1つあげてみましょう。そしてそのために動き出しましょう。

7月21日のメッセージセルフチェック

その主人は彼に言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」 (マタイ 25:21)

1番目のしもべは、主人から与えられてたまたとない素晴らしいチャンスに「すぐに」応えました。2番目のしもべも同じです。3番目のしもべが信頼されて渡された1タラントを土を掘って埋めている間に。
埋めても誰の利益にもならず、植物の栄養にさえもなりません。
私も、始めは平らだった裏庭が色々なものを埋めて丘になったのを認めます。 あなたの裏庭はどうですか?
神様があなたに見せようと目の前に持ってきたのに、あなたはそれを認めて見ようとしないことはありませんか?
色々な形がありますが、神様からの贈り物を、箱から出さず、主人の栄光のために使われていない、ということはありませんか?
あなたが埋めたものを土から掘り出し、私たちの主人の素晴らしい冒険に参加する時です!主人の喜びを共に喜ぶ、という素晴らしい機会なのです!

7月14日のメッセージセルフチェック

すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。父は、みこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。(ヤコブ1:17,18)

大きいものも小さいものも、すべて神があなたに与えた贈り物の目録を書き出してみましょう。それらの贈り物をあなたは箱から取り出し神様の栄光のために使ったことがありますか? 全ての贈り物は、箱から出すか出さないかの「あなたの」選択と共にあなたに与えられています。使うか使わないか。
光を造られた父から下った、それらの贈り物を、あなたはどうするのでしょう?

7月14日 メッセージ

7月7日のメッセージセルフチェック

しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。 (マタイ 14:27)

ペテロは生きる中でのある真実を見せています。たとえイエスを信頼し、従っていくことを選んだとしても、恐れという醜いものはひょっこりと顔を出すものだということを。
 ペテロはイエスに近づくために水の上を歩き出す決心をしました。そして実行にうつすも、主から目を一瞬離し沈み始めます。 イエスと奇跡を共にするということは、決して恐れが心に姿を現さないということではありません。
しかし、恐れによって前に進むことを邪魔される必要はない、ということを知りましょう。イエスにあるあなたの信仰を成長させるために、リスクを掛けることのできる何かとはあなたにとっては何でしょうか?

6月30日のメッセージセルフチェック

すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエスは「来なさい」と言われた。(マタイ 14:28,29)

舟の上の安全を出て水の上を歩こうとするのに、ペテロはどれだけの勇気と信仰を必要としたでしょう?それも穏やかな水面ではなく、怒り狂うように荒れた嵐の中です!ペテロのような海に慣れた人間でさえ、それは本当に恐怖を感じる信仰の一歩だったに違いありません。
あなたの舟はどんな舟に見えますか?注意深く見てみましょう。あなたの舟が一体何なのか、本当に見極めるには少し時間がかかるかもしれません。
イエス様が「来なさい」と言う時、あなたが自分の舟から出るには何が必要ですか?

6月30日 メッセージ

6月23日のメッセージセルフチェック

夜中の3時にイエスは湖の水の上を歩いて弟子たちのそばへ向かいました。弟子達がそのイエスを見ると彼らは非常に怖がりました。「お化けだ!」と彼らは叫び恐怖心につつまれます。しかし、イエスはすぐに彼らに言いました。「しっかりしなさい!わたしです!恐れるな!」
「主よ、もしあなたなら」ペテロは応答しました。「水の上にいるあなたの元へ来るようにと命じてください」 (マタイ 14:25-29)

恐れというものには、自分の人生における神様の働きを見えなくさせることができます。舟の上で怖がっていた弟子たちのように、恐れとは、真実をゆがめ、真に起きていることが一体何なのかを見極めることを難しくします。
「恐れるな!」という言葉は聖書では神様の挨拶としては頻繁に出て来る言葉でしょう。 神様と共に歩くと、恐れで過剰反応することをせず穏やかに主を信頼することを増々問われることになります。
主と共に歩く時、イエスが提供している励ましをしっかりと受け取って、信仰の目で物事見て、一体あなたは誰と一緒に歩いているのかを思い出しなさい。
あなたには、目の前にイエスが立っているのが見えますか?

6月16日のメッセージセルフチェック

“幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩人々。” (詩篇 119:1)

新しいメッセージのシリーズが始まりました。今シリーズのテーマは「主と共に歩く、とは現実にはどういう意味なのか?」というものです。
あなたの人生の中で、神があなたに変わって欲しいと望んでいて、今まであなた自身が変えられることを拒否してきたエリアは何でしょう? 神はあなたを連れて行きたいと望んでいるが、あなたが到達したことの無い場所です。
主と共に歩く、ということに「はい」と返事をした時点で、多くのことが動きだし、人間の力ではく主の力によって主が動き出します。
「はい」の反対の返事は「いいえ」だけではありません。 「返事をしない」というのは「いいえ」ということと同じです。
あなたは、神の召し/命令に返事をする準備ができていますか?それとも今回もまた返事をしないのでしょうか?
人生において現実に信仰を生きますか?それとも動かずに観覧席から眺める人生を生きますか?
神はあなたに、観覧席で座っているのではなく、グランドで戦って欲しいと思っているでしょう!

6月9日のメッセージセルフチェック

“志の堅固な者を、あなたは全き平安(完全な平安)ののうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。” (イザヤ書26章3節)
 1 サムエル記 17章
 
前回はシリーズ最後のメッセージとなり、多くのポイントについて話しをしました。
 ダビデは神様がしてくださった過去の記憶をしっかりと握りしめていたことも、ダビデがゴリヤテを倒すことができた1つの理由でした。
自分の人生における神様の勝利の体験を思い出すことができていました。ダビデが見つめていたのは目の前の問題ではなく神様でした。
ダビデは人生の様々な出来事の中で、多くの場合神様へと向かうことができていましたが、それが出来なかった時には彼はひどい失敗をしました。
 大きな戦いの前で完全なる平安を保つには、思考も信頼も頑に神様の上に立っていることが必要です。このしっかりと頑丈さは、気分や状況には左右されないものなのです。
ダビデにとって重要なこととは、「いかに自分が快適に幸せに過ごすことができるか」ではなく、「いかに神が喜ばれるか」でした。
たった5つの石と主の名だけを手に、戦いに挑みました。 その戦いは、彼の個人的な戦いではなく、神の名と名誉にかけた戦いでした。

あなたは、目の前の問題や苦しみに挑む時、主の名において挑むということがどれだけあるでしょうか?

ダビデは神に対する彼の情熱と、神のダビデに対する情熱を、巨人ゴリヤテに向かって走っていく姿で表現しました。
彼は敵をにらみ見つめて恐がりながら40日もの間過ごす様な者ではありませんでした。
ダビデがゴリヤテを倒すことができるなどと誰も信じませんでしたが、神とダビデは知っていました。
ダビデは神のために命をかけてもいいと思っていました。そして彼はその思いを見せました。
それに、ダビデは「一回限りの」挑戦者ではありませんでした。彼は何個も石を袋に入れました。それは何度でも戦いに挑もうという思いがあったことを表します。
彼は一度挑んでダメだったら諦めるような者ではありませんでした。
私たちもそのような者であるべきです。ダビデは自分の息子ソロモンに言いました。「強く、雄々しく、恐れずに、神様への働きを成し遂げなさい!」と。
あなたの目の前にある問題に挑むには、あなたもそのようであることが求められます。

6月9日 メッセージ

6月2日のメッセージセルフチェック


我が子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現される。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。今、心に留めなさい。主は聖所となる宮を建てさせるため、あなたを選ばれた。勇気を出して実行しなさい。 (I 歴代誌 28:9, 10) 

I 歴代誌 28章、29

ダビデは息子ソロモンに自らの言葉でアドバイスを与えています。ソロモンはエルサレムに宮を建てるようにと神によって選ばれています。それはダビデが自身で行うことを望んでいたことでした。 この大きなプロジェクトがいかに重要なものであるかを認識していたダビデは、その任務を命じられている若く経験の少ないソロモンにアドバイスを与えているのです。
あなたは自分の心と考えと意志と最近の生活の状態を観察し、ダビデのアドバイスから学べることができます。

あなたの心は神に捧げられていますか?
神の道、神の方法に従おうという気持ちがありますか?
自ら積極的にすすんで神を探し求めていますか? 
あなたの人生における神の計画について 、今心に留めて考えていますか?
 
「自分の人生は自分の栄光のためにある」と思っていますか?  
それとも「自分の人生は主の栄光のためにある」と思っていますか?

6月2日 メッセージ

2012.6.2 一心に自らすすんで捧げるとはどういうことなのか(約48分)

5月26日のメッセージセルフチェック

「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」 (箴言 19:21)
  I 歴代誌 28:1-11 / 2 サムエル記 7
 ダビデ王の心には主の契約の箱を置くための宮を建てたいという望みがありました。長い間、彼は宮をエルサレムに建てたいという志をもっていた彼は、具体的に様々な準備もしました。
しかし神は「だめだ」と、仰せられました。なぜならダビデは戦士であり、彼の手は多くの血にまみれていたからです。
ダビデは自分の人生の中に建てていた自分の計画を変えなければなりませんでしたが、その時ダビデはまず神がそれまでの人生の中でしてくださったことを思い返し、神に感謝を捧げ、「自分の望むところの計画」よりも、「神の目的」を信頼しました。
 

神の目的により、あなたの望む自分の計画が潰される時、あなたは何をしますか?
「自分の夢」よりも神の目的に従おうという気持ちがあなたにはありますか?
そして、あなたが自分で思っている自分の夢よりも、神の目的はそれを超えた大きな、大いなるものであると、あなたは思えるでしょうか?

5月19日のメッセージセルフチェック

2 サムエル記12章ー19章

 「わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。」 (箴言 15:16,17)
ダビデは王としては多くの成功を治めた人でしたが、自分の家庭を治めることのできない人でした。家族生活は混乱の連続で、そして家族の中のそんな状況が増々ダビデの目を家族以外の事に向けさせたのかもしれません。あなたの人生にもそのようなことが起きていませんか? 外の生活は成功しているが、家の中は混乱している.....。真の、一時的でない成功、平安、喜び、そのようなものは家の中で始まるのです。まずあなたの配偶者に心を配りましょう!
あなたの配偶者に対して、誠実であり、恵み深くあり、理解(賛同とは違います)に努め、親切であり、思いやりを持ち、愛そうとする気持ちを持ちなさい。あなたの配偶者に対して、イエスのようでありなさい。神の家族にあっては、 あなたの両親とは天の父でありイエスです。神の家族にあっては、あなたの模範とはあなたの親であるイエスなのです。イエスのように愛しなさい、という言葉はあなたにとっての「オススメ」ではなく、神様の命令なのです。

「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」 (箴言 22:6)
あなたは人の親でしょうか?いつか子供を持つかもしれませんか? もしそうなら、子供を持つということは、多くの働きと高い覚悟が必要だということを知っていてください。神様を信じて生きるということはどういうことなのか、それを知るには両親の関わりが必要だからです。それは時間の掛かることであり、他の近道や楽な方法などありません。 両親は、子供に対して良くも悪くも大きな影響を与えます。 父親と母親がお互いをどのように扱い、どのような態度で接し合っているかが、子供に最大の影響を与えることのできる方法の1つです。 箴言22:6の言葉は、子供はいつまでも子供ではなく大人になるのだ、ということを再確認させます。あなたは子供たちに「どのような大人」になって欲しいと望みますか?あなたには非常に大きな責任があり、この世界をもっと良い世界にする素晴らしい機会も与えられているのです!

愛ちゃん洗礼おめでとう!!

ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。
(使徒の働き8章35節ー38節)

5月12日のメッセージセルフチェック

主はこう仰せられる。「あなたは隠れて、それをしたがわたしはイスラエル全部の前で、太陽の前でこのことを行おう。」ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたを赦してくださった。あなたは死なない。」
 2サムエル記 12:12/ 箴言 14:4/ 伝道者の書 11:4-6.


PART1) 神は、あなたと安っぽい駆け引きゲームをすることに興味はありません。神は怒るのに遅く、すぐに赦してくださろうとします。神は悪い行いを裁きます。それは、罪を犯した人にすぐに悔い改めを求めるということであって、罪を除こうとする、ということです。主の前に自ら差し出すべき隠された罪はありませんか?神はあなたにいつでも神の御前で清くあって欲しいと望んでいます。 赦しも自由も、あなた次第で受け取ることができます。

PART2) ダビデは言った。「子どもがまだ生きている時に私が断食をして泣いたのは、もしかすると、主が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれない、と思ったからだ。しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか?私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。」 (2 サムエル記 12:22,23)

ダビデは神に「あなたの子は死ぬ」と言われて、ただ嘆き泣いて自分を憐れみ何もせずに座っていたわけではありません。自分の間違った行いに対する神の裁き、すなわち自分の子どもの死という決定ではあるけれども、断食をして何とか子どもを救ってはくれないかと主に泣き叫び懇願しました。ダビデの息子であるソロモンは箴言と伝道者の書において、この視点について書いています。 神がはっきりとその御心を示すまでは、ダビデは全ての可能な限りの選択肢全てにトライする気持ちをもっていました。そして痛く厳しい決定が神様によって下された時、ダビデは謙虚にそれを受け止め、神を賛美し、また人生のスタートを切ったのです。 日々の生活においても、ミニストリーにおいても、整った条件を待っていたら、何もできません。そして人生に何の実りも成らないでしょう。「これがうまくいくか、あれがうまくいくか、もしかしたらどちらもうまくいくかもしれない」という聖書の言葉の通りです。(伝道者の書 11:6)

5月12日 メッセージ

ヘンちゃん、社会貢献者表彰式

5月1日ヘンちゃん、表彰式にて。大槌で多くの子供達に「ヘンちゃん」と呼ばれ共に過ごした9か月がありました。
財団の方の挨拶で「名前は表彰式ということになっていますが、選ばれなかった方や人知れず多くの人々を助けた方、そういう方達が沢山います。この表彰式という1つのイベントは、そういう方達が居たのだ、居るのだということを後世に残していくためのものです.......」という言葉がありました。

5月5日のメッセージセルフチェック

“高ぶり(プライド)は破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ” (箴言 16:18)

2 サムエル記 11章
ダビデは成功をおさめ、物事を見極める視力を失います。次々と成功し続け、彼は力を手にし、自分には力があると考えるようになります。人間は成功によって不健全なプライドを持つことがあります。そして、「自分が欲しいと思うものを手にして何が悪いんだ」と考えるようになります。そして、自分の周りにいる人のことを、心をもつ人間としてではなく、ただ自分のために働く者として見るようになります。人を見る時に、その人は「ある父親にとっての大切な娘/息子」「誰かの大切な配偶者」「神が愛する神の子」ではなく、「一定の機能を果たす生きている物体」として人のことを見るようになるのです。その物体を自分の希望通りに支配し操作しようとするのです。
あなたの周りにいる人たちを見下し、自分の目的や自分の希望を果たすためにその人たちを何とかして操作しようとするようなことがないように気をつけなさい。
神はそれを喜ばないからです!

5月5日 メッセージ

2012.5.5 上からの眺め(約48分)

4月28日のメッセージセルフチェック

ダビデが言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか?私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい。」 (2 サムエル記 9:1)
王は言った。「サウルの家の者で、まだ、だれかいないのか?私はその者に神の恵みを施したい。」(2 サムエル記 9:3)
 2 サムエル記 9/ 2 サムエル記 4:4

先週のメッセージでは、成功し更に栄えようとしている王ダビデ が、別れた大切な友人と交わした約束を守り抜いた姿を学びました。ヨナタンは死にましたが、ヨナタンにした約束は死んでいないのです。ダビデは、主が自分にした覚悟と約束をいつも覚えて、その約束はずっとダビデの人生において継続されています。
ダビデはヨナタンとの約束を、時や状況に関わらず、守り抜きます。ダビデは、自分が他者と共に体験した神の祝福を、更に他者と分かち合いたいという思いを持っています。
主の私たちへの揺るぎない覚悟を思う時、私たちは自分が主の前で約束し誓ったことを守り抜く決意をあらたにさせられるべきなのです。
イエスとイエスの教会、そしてイエスの栄光のためにイエスのことを伝えるようにと私たちに命じられている世界(人々)。あなたはこれらに対して覚悟を持ち続けるということを選びなさい。

4月28日 メッセージ

4月21日のメッセージセルフチェック

“まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは、むしろ神の宮の門口に立ちたいのです。” (詩篇 84:10)
(読みましょう。2 サムエル記 6章1節-19節/ 1 歴代誌 13章ー15章)

先週のメッセージでは、1つの出来事の中に「惨劇」と「祝福」を学びました。
王ダビデはダビデの町エルサレムへ「主の箱」を運び込もうとしていました。 その時、主の怒りはウザに向かって燃え上がりました。なぜならウザの行いには主に対する敬意の無さがあらわれていたからです。 (2 サムエル記 6:7)
主の箱を持ち込む際の手順が、神のさだめに従ったものではなく、人々の意見や賛同を多く受けるアイディアを土台にした手順だったからです。いけにえも捧げず、敬意もなく、準備もせず、神の聖さへの畏敬の念もない。ただ自分に都合の良い方法で主の箱を自分の町へ持って帰りたかっただけでした。
主の怒りがウザを打ち、ウザが死んだという出来事を受けて、次の時には王ダビデはエルサレムに主の箱を持ち込むことに成功します。この時、ダビデはどのようにして主の箱を運べば良いか、と「主に」伺いを立てたのです。いけにえを捧げ、敬意を払い、その手順を神のさだめの通りに行いました。そして、ダビデは神を賛美しながら激しく踊り喜びながら主の箱を運び入れる行進の先頭にいました。彼は、主と人々の前で力の限り喜び踊りました。激しく踊っている自分の姿が人の目にどう映っているのかなど気にしませんでした。ただ、神の臨在が町へとやってきたことだけが重要なことだったのです。

私は、色々な人たちが色々な理由で教会で声をあげ歌い踊っているのを見てきています。中には、ただ単に楽しいだけでそうする人もいます。音楽がカッコ良くてそうする人もいます。自分の好みのジャンルの音楽賛美だからそうする人もいます。その時だけ気分が盛り上がってしまってそうする人もいます。「クールなサウンド」で歌って踊って楽しむ。悪いことではありません。しかし、私が語ろうとしているのはそういうことではありません。他人の目を気にせずに、ただ自分の人生に主が共に居てくださるということだけが理由で、自ら神を賛美することを選びとる、ということを言っているのです。 自分に都合の良い方法ではなく、敬意と正しい視点をもって、キリストにあって自分の毎日を喜ぶということが、まさに主をたたえ歌って踊るということなのです。神が生きて自分の毎日に共にいてくださることを喜ぶ。これがダビデが2度目に主の箱を町へ運び入れた時の出来事から学べることです。
神はもうすでに町へ運び入れられたのですから、 あなたの人生に主がしてくださることをただじっと待っているのはもうやめましょう!

4月21日 メッセージ

4月14日のメッセージセルフチェック

て、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。 (ヨハネの福音書 13:1)

ヨハネは実に的確に書いています。
弟子達の1人はイエスを裏切り、残りの弟子達もイエスを捨てて逃げてしまうことを、イエスは知りながら、最後の夕食の場でイエスは彼らのために仕えることを選びました。一度、いえ一度ならずとも、私たちも皆弟子たちと同じことをしたことがあるはずです。
イエスは、その愛を残るところなく示し、弟子達と、そして私たちに見せてくれていました。あなたが次に聖餐の時を持つ時にはもう一度主の最後の夕食をもっとよく見つめてみましょう。愛、恵み、イエスの働き、それらが主の者たちに対して実践されていることが見えます。 同じ愛と恵みを、イエスは今日もあなたに差し出しているのです。 それが、あなたの一日をより良い日とすることを知っているから。

4月14日 メッセージ

4月14日 主の夕食(約43分)

4月7日のメッセージセルフチェック

恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたこと、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」女たちは、イエスのみことばを思い出した。 (ルカの福音書 24:5-8)

ルカの福音書 23: 26-24:8.

もう一度イエスの十字架と復活に戻り、その3日を過ごしましょう。マグダラのマリアや他の者たちが御使いの言葉を聞くように、私たちもまたイエスの言った言葉を思い出す必要があります。あなたの忙しい毎日の中で、イースターの重要性や奇跡に目の前を過ぎ去らせていくのは実に簡単なことです。救い主イエスにある神の愛を自分から引き離すことができるものは、この世界には1つもないのだということを、もう一度自分に思い出させましょう。全く、1つも存在しないのです。(ローマ人への手紙 8:39)
この奇跡の事実が、あなたの毎日をうれしくさせることができるはずであり、そうあるべきなのです!

4月7日 メッセージ